私が社会学専修を選択した動機として、まず自分はかなり「社会」という存在を不思議がっており、その存在が実際はどういったものなのかというのを多角的に捉え、解明していきたいと考えている、という事実がある。自分たち人間が生み出した社会、つくってきた社会、そこでは様々な生活が営まれており、もちろん自分もその一人なのである。社会という存在は、誰にとっても無関係ではなく、我々の地盤を築き、そして我々を大きく覆っているのだ。そのような社会を学ぶ中で、僕はこの大学の社会学との向き合い方、社会学の学説史的検討と諸社会理論の摂取を伝統的基盤とする取り組み方に強く賛成し、強く憧れる。また社会学専修の授業では、文学部の講師のみならず、他学部、あるいは他大学などの様々な講師の方々からのバラエティに富んだ講義を受けることができると聞いており、それらを糧にして自分の見識をどこまで広げられるかが、とても楽しみでしかたない。

ここで、私がほかにも増して注目したい、学びたい分野はメディア研究に関することである。現代社会において、最も普及しており力を持っているのがラジオでもテレビでもなくインターネットであるのは言うまでもない。インターネット上では、誰でも、いつでも、概ねどこからでも、情報を発信し、受信することができる。これはもちろん素晴らしいことであり、かくいう自分も、このインターネットの利便性を、「Twitter」なり「LINE」なり、「2ちゃんねる」なり多様な場面で享受している。僕だけではなく、ほとんどの人間がインターネットなしに生きていくことは難しいだろう。当時小学生だった妹がみんな持ってるからとわめいてスマホを買い与えられてから、一年が経った。もう数年で退職の父親が、インターネットで読んだニュースの話を頻繁にしてくるようになった。インターネットは老若男女問わず、我々の生活に深く根付いている。その中でもとりわけSNSの存在感はすさまじい。上にも記した、TwitterLINE、誰とでもテレビ通話できる「Skype」などは、一部の層を除いて、その名を知らないものはほとんど0に近いだろう。最近では「SNOW」という、顔認識等でユニークな加工が施された画像・動画を送信できるアプリが大変流行しており、SNSはついに言語の枠を飛び越えてビジュアルのみの通信においてもその勢力を伸ばしている。

 

 

我々をとりまく社会環境は絶えず変化を続けている。その中で、社会のシステムや価値観、それらの構造などを明確に捉え、また具体的で積極的な批判的視点をもって、様々な資料をもとに自らの手で正確な調査・分析を重ねることは、社会学を理解する上で非常に重要になるはずである。私は、そのような力を身につけるために精一杯努力して、大学生活を、この文学部に入学した意味をより豊かなものにしていきたいと考える。

 

僕が社会学専修を選択した動機として、まず自分はかなり「社会」という存在を不思議がっており、その存在が実際はどういったものなのかというのを多角的に捉え、解明していきたいと考えている、という事実がある。自分たち人間が生み出した社会、つくってきた社会、そこでは様々な生活が営まれており、もちろん自分もその一人なのである。社会という存在は、誰にとっても無関係ではなく、我々の地盤を築き、そして我々を大きく覆っているのだ。そのような社会を学ぶ中で、僕はこの大学の社会学との向き合い方、社会学の学説史的検討と諸社会理論の摂取を伝統的基盤とする取り組み方に強く賛成し、強く憧れる。また、京都大学には

 

 

ここで、僕がほかにも増して注目したい、学びたい分野はメディア研究や文化社会学である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会学理論を厳密に読解していきたいと考えている。。

情報歴史社会学

現在、世界のあらゆる国や社会において、我々人類は格差という問題を抱えている。この格差とは、たとえば経済的な格差であり、資本主義が大きく拡大している現代においては、おそらく必然的に生まれてきたものであろう。それは、資本主義というものが、労働者階級から労働力を商品として買い、それを利用して生産した余剰価値を利潤として獲得する経済体制であることに起因していると思われる。この場合、労働者階級を買う立場の者が、利潤を多く手に入れるためには、労働者をできるだけ安くで買えばよい。つまり、労働者に支払う賃金をどれだけ安上がりに済ませられるかが、収益のポイントとなるのである。

産業革命、資本主義の生まれた時代、18世紀に、経済学の父とも呼ばれるアダム・スミスによって初めて唱えられた、この節約へのカギが、「分業」である。彼の主張した分業論とは、ある難解な仕事を一人の人間がこなすためには高次元な技術・能力が必要だが、もしその仕事を簡単な部分部分に細分化していくと、そこまで高度な技術のいらない単純な部分の仕事がたくさん切り取られて、熟練していない素人にも仕事が提供できる。こうすることで、作業時間の大幅な短縮がはかられ、また、このような非熟練工は多数存在し、取り替えが効くため、労賃も安くてすむ。加えて、時間短縮によって余った時間はさらなる研究や発展が望めるということだ。このアイデアは、かなり現実的で効率的なものであるとわたしは考える。これに対して、19世紀に分業論をさらに展開した人物がバベッジである。労働者の能力が全員平等であることを前提としていたアダム・スミスと異なり、バベッジは個々人の能力に差はあるものとし、より高い技術を要する労働者の労働時間は、労働の細分化によって、できるだけ最小限に抑えられれば製造主はより高い利益をあげることができると考えた。このバベッジの原理は能力の「格差」が存在するために成立するもので、能力のある労働者が能力を無駄にしないように効率化をはかり、生産性の向上、人件費の削減を目指した。アダム・スミスが低い技術しかもたない素人にも仕事があてられるように分業論を唱えたのに対して、バベッジは製造過程における下層の労働者を人間ともみなしていないような考え方である。実際、バベッジは最下層の労働者、つまり低賃金で機械的仕事をする労働者を本当に機械で代替できると考えていたことをはっきりと示すのがフランスの大対数表作成プロジェクトである。

essay

They say that people who speak different languages have different ways of thinking. It is true that they are different from person to person. Moreover, a linguistic difference also means a logical difference. The article is related to this opinion, and shows a beneficial suggestion and a prejudice.

The article lead me to think that we have to be more careful in writing essays in English. The author doesn’t classify Japanese into the Oriental group, but oratory of Japanese is distinct from the English one and similar to the one of Oriental group. When we write essays, if we pay no attention to that, we often can’t tell well what we want to really mean. Of course, we should endeavor to avoid making such mistakes both in writing English and Japanese essays. We should write coherent essays at any time.

However, the author emphasizes the good points of logical structure showed in English writing and can’t understand fully the characteristics in other languages. This is what I want to criticize in any way. The author says “this distinction is not intend to offer any criticism of other exciting paragraph development ”, in addition, he says “The rhetorical structures of English paragraphs may be found in any good composition text. The of paragraphs in other languages are not so established.” Not only English, but also other languages have their particular structures. I think Many people have different opinions to each languages. 

Finally, it is useful to read this article to make public statement like English essays. However, needless to say, it is more or less partial to English. At the same time, for us, it is important to acquire writing skills in English and have our own way of thinking with care .