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氏名:山本京平 学籍番号:0100272415  

エミール・デュルケーム氏によると、社会的事実は、社会制度の文化的で構造的な性格をよくあらわしている。そのシステムとは、われわれが、自分たちの外部に存在するものとして経験しており、特有の時代においてそれらのシステムに偶然参加してしまった人々の意志や動機の総量に達するほどの影響と権威を持っている。ある程度においては、社会学というものは、利己主義者たち、つまり19世紀ヨーロッパの思想を支配していた人間の生活への心理学的展望に対する反応として生まれた。デュルケーム氏はとりわけ、社会や社会生活の集合的性質では、個々人が経験や表現するそれを還元することはできない、つまり、たとえば、人間の個々人として慣習を経験することは、社会現象としての慣習の原因にはなりえないと主張した。

上記の文章から、社会的事実とはおおよそ、人間個人の外側にあって、個々人の行動を拘束したり、規制したりするものだということが読み取れる。また、それは社会における集団に周知として共有された行動や思考の様式であると言える。確かに社会的事実という言葉を理解する上で、このことは納得させられる。大多数の人間がAだと思っていることや、Aすべきであると考えている場合、Aは「慣習」となり、人々に受け入れられていって、最終的にそれが「社会的事実」へと成長する。それはほとんどの場合、もちろん地域によって様々な差があるであろうが、規制の価値観として、あるいは常識のようなものとして、社会にどっしりと腰をおろしている。自分の生まれる時代や場所を選ぶことのできないわれわれは、自分たちの生きる「特有の時代」における価値観、あるいは「社会制度」に「偶然」にも「参加」させられ、その「影響と権威」に支配されていると言えるのではないだろうか。たとえば、「嘘をついてはいけない」や「人に会ったら挨拶をする」、あるいは「挨拶をされたら挨拶を返す」のようなものは社会的事実と言えるだろう。これらはわれわれが社会で生活する中で、望ましいこととして認知されている。もちろんこれらの価値観が普及したのがどの時代かは分からないし、自分がいつそれらを身につけたのかも知らないが、自分自身その善悪も何も問わずにただ受け入れている。しかしこれらを蔑ろにすればもちろん周囲から顰蹙を買ってしまい、周囲との人間関係が悪化してしまうということは言うまでもない。このような場合、社会的な罰則が発生してしまったり、制裁が加えられてしまうということもしばしばある。だからその価値観、慣習に従わざるをえなくなる。集団が是と認識しきっている社会的事実に対して、個人が非と主張したところで、その声はきっと反映されないだろう。個々人の経験する慣習は、集団の総和としての慣習とは異なり、それに還元されえない、とデュルケームは主張する。しかし、本当にわれわれは集団がそう認識しているから、で機械的にうなずき続けていてよいのだろうか。価値観というものは社会の変化とともに移りゆくものである。歴史に目を向けてみると、古代から様々な主義・思想が既存のそれに反発、台頭してはまた別のものにとって変わられてきた。つまりこれからもまだそのような変化は起こっていくだろうし、こうしている今、現在進行形で変化する潮流があるはずだ。そんな中、われわれは社会の持つ集合的性質にのまれて、受動的、流動的に価値観を身につけてはならない。インターネットが発達した現代、小学生のような幼い層から高齢者層まで、様々な人間がネットを利用する。さらにスマートフォンの急激な発展と普及。それに恐らく多くのユーザーたちのネットリテラシーが追いついていないということはある程度学んだ者からすれば明らかなことではないだろうか。文明の発展した現代だからこそ、新たな社会的事実もたくさん生まれていくことになるだろう。そんな時代に、個々人が、しっかりと取捨選択して慣習を築きあげていかねば、社会というものが崩壊するようなことにもなりかねない。あるいは、既存の価値観だから、社会的事実として成立してしまっているから、で諦めて何の考えもなしに受容するのではなく、それが本当に正しいのか、幸せに導いてくれることなのかと、常に疑問を持って批判的な態度で接することもまた重要であると思う。これから自分たちがつくる社会に、われわれがどれだけのことを出来るかというのは、そこに大きくかかっているはずだ。